キャバレーからキャバクラへ│接待飲食店の歴史をたどる

夜の繁華街を歩けば、キャバクラにラウンジ、ホストクラブ、スナック、ガールズバーと、お酒と会話を楽しませてくれる店の看板がいくつも目に入ります。今ではすっかり見慣れた光景ですが、こうした店の名前や形態は、時代ごとに生まれては消え、少しずつ姿を変えながら今日まで受け継がれてきたものです。キャバクラという言葉が生まれたのも、実はそれほど昔のことではありません。
法律の上では、こうした店はまとめて「接待飲食店」と呼ばれ、風営法の第2条第1項第1号に定める風俗営業として、公安委員会の許可のもとで営業しています。その条文を読んでみると、「キャバレー、待合、料理店、カフェー」という、今ではほとんど耳にしなくなった言葉が並んでおり、現代のキャバクラやホストクラブは、法律の上では「その他」の一言に含まれているにすぎません。条文に残された古い言葉の一つひとつが、実はこの業界の長い歴史を物語っているのです。
江戸の茶屋で芸者が客をもてなした時代から、明治の銀座に生まれたカフェー、戦後の熱狂を象徴するキャバレー、高度経済成長期のスナックやアルバイトサロン、そしてバブル前夜に誕生したキャバクラ、令和のガールズバーやコンカフェに至るまで、日本の接待飲食店は、人々の暮らしや欲望、そして法律との綱引きの中で、何度も形を変えてきました。
本稿では、キャバレーからキャバクラへと続く接待飲食店の歩みを、風営法の移り変わりとともにひもといていきながら、夜の街の看板の向こう側にある、100年以上にわたる物語を、肩の力を抜いてたどってみましょう。
茶屋と芸者の時代
日本の接待飲食店の源流をたどると、江戸時代の茶屋にたどり着きます。江戸の町には、お茶や食事を出す茶屋が数多くあり、その中には、芸者を呼んで三味線や踊りを楽しみながら酒を酌み交わす、今でいう料亭のような役割を担う店もありました。客をもてなし、場を盛り上げることそのものを商売とする文化は、この時代にすでに形づくられていたのです。
明治に入ると、芸者遊びの舞台として「待合」と呼ばれる店が広がっていきます。待合とは、もともと客と芸者が待ち合わせをするための場所として生まれた店で、料理は外の仕出し屋から取り寄せ、座敷で芸者を呼んで宴を開くという、独特の営業形態をとっていました。政治家や実業家が密談の場として待合を使ったことから、「待合政治」という言葉まで生まれたほどです。
料亭や待合での芸者遊びは、長らく日本の上流階級の社交の場として機能してきました。ただし、その世界は格式が高く、一見の客は受け入れない店も多かったため、庶民にとっては縁遠い存在でした。客をもてなす文化が、やがて庶民にも手の届く形へと広がっていくきっかけとなったのが、明治の終わりに銀座に現れた、まったく新しいタイプの店だったのです。
ちなみに、風営法の条文には、今でも「待合」という言葉が残っています。戦後間もない時代に法律がつくられたとき、芸者遊びの待合は、まだ夜の街の主役の一つだったためです。現代では待合という営業形態はほとんど見られなくなりましたが、条文の中にだけ、その名前がひっそりと生き続けているというのは、なかなか味わい深いことではないでしょうか。
銀座に生まれたカフェー
1911年(明治44年)3月、東京の京橋区日吉町、現在の銀座8丁目に「カフェー・プランタン」という店が開業しました。創業者は洋画家の松山省三で、パリで芸術家たちが集うカフェーにならい、洋酒や洋食を出す社交の場としてつくられたものです。同じ年の8月には尾張町に「カフェー・ライオン」が、12月には南鍋町に「カフェー・パウリスタ」が相次いで開店し、銀座に新しい社交の文化が根づいていきます。日本で「カフェー」を名乗る店の歴史は、ここから始まりました。
カフェーの大きな特徴は、「女給」と呼ばれる女性たちが客の給仕をしたことにあります。中でもカフェー・ライオンは美しい女給がいることで評判を呼び、ビールの売上に応じてライオンの像が吠える仕掛けも話題となりました。芸者のような芸事の素養がなくても、気軽に女性との会話を楽しめるカフェーは、文士や学生、サラリーマンといった新しい都市の住民たちを引きつけ、やがて東京だけでなく、大阪や京都、神戸などの大都市にも広がっていきました。
昭和の初め、1929年から1935年ごろにかけて、カフェーは全盛期を迎えます。この時代には、大阪のカフェー資本が東京へ乗り込み、性的なサービスを露骨に売り物とする店も現れるようになりました。不景気と失業の暗い世相の中で、ネオンとジャズに彩られたカフェーは大衆の心をとらえ、1932年ごろには全国のカフェーが3万軒、女給の数は8万9000人にものぼったといわれています。もとは文化人のサロンだったカフェーは、いつしか女性の接客そのものを売り物にする店へと姿を変えていったのです。
カフェーの過熱ぶりは、やがて当局の取り締まりの対象となります。風紀を乱すとして規制が次第に強化され、戦時色が強まるにつれて、ぜいたくな娯楽への締め付けはいっそう厳しくなりました。そして太平洋戦争の激化とともに、カフェーは表舞台から姿を消していきます。ハイカラな社交場として始まったカフェーの物語は、こうしていったん幕を閉じることになりました。
戦後とキャバレーの黄金時代
戦争が終わると、焼け跡の中から、夜の街は驚くほどの速さで息を吹き返します。進駐軍の兵士を相手にしたダンスホールやキャバレーが次々と生まれ、生バンドの演奏に合わせてホステスと踊りながら酒を楽しむという、それまでの日本にはなかった華やかな遊びが一気に広がっていきました。戦前のカフェーにルーツをもつ接客は、戦後のキャバレーで「ホステス」が担うものとなり、夜の街を彩っていきます。
こうした状況を受けて、1948年(昭和23年)に風俗営業取締法が制定されます。その後、1959年(昭和34年)の改正で法律の名称は「風俗営業等取締法」に改められ、風俗営業の第1号に「キャバレーその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客席で客の接待をして客に飲食をさせる営業」が、第2号に「待合、料理店、カフェーその他客席で客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」が置かれました。ダンスのあるキャバレーと、ダンスのない待合やカフェーとを分ける、この二つの区分は、のちに大きな意味をもつことになります。
キャバレーは、高度経済成長期にあたる昭和30年代から40年代にかけて最も数を増やし、東京だけでも数百店舗あったとされています。広い店内にステージとダンスフロアを備え、生バンドの演奏やダンサーのショーを楽しみながらホステスと酒を飲むキャバレーは、スナックよりも豪華で、高級クラブほど敷居が高くない大人の社交場として、1970年代に最盛期を迎えました。会社の接待や社員旅行の夜には、キャバレーへ繰り出すのがお決まりのコースとなり、大衆キャバレーの代名詞となった「ハリウッド」は、一時は40店舗以上の系列店を抱えていたといいます。
しかし、オイルショックやバブル崩壊による景気の悪化、ディスコやキャバクラといった新しい業態の登場、従業員の高齢化や建物の老朽化などが重なり、キャバレーは次第に姿を消していきました。1931年(昭和6年)に創業し、1951年からキャバレー「白いばら」として銀座の夜を彩ってきた老舗も、2018年1月10日に惜しまれつつ閉店しています。同じ年の12月30日には、東京に最後まで残っていたハリウッドの赤羽店と北千住店も閉店し、一つの時代が終わりを告げました。
アルサロ、スナック、ホストクラブ
キャバレー全盛の時代、関西では一風変わった店が生まれていました。「アルバイトサロン」、略して「アルサロ」と呼ばれる店です。アルサロは1950年ごろに大阪のミナミで誕生したとされ、前金制の明朗会計と手ごろな料金を売りにして人気を集めました。大阪の十三には、1953年(昭和28年)に開店したアルサロの最古参の一軒が、平成の時代まで営業を続けていたほどです。アルサロは、のちに派生していくさまざまな夜の業態の源流の一つとなっていきます。
1960年代に入ると、今度は「スナック」が登場します。スナックの前身は、酒だけを出す「スタンドバー」と呼ばれる店でした。1964年(昭和39年)の東京オリンピックを前に風紀の取り締まりが強化され、深夜に酒を出す営業が制限されると、スタンドバーは軽食(スナック)を出す飲食店という名目で深夜まで営業を続けるようになります。これがスナックの始まりだとされており、カウンター越しにママと会話を楽しみ、カラオケで盛り上がるスナックは、1990年代の最盛期には全国で12万軒に達したといわれるほど、日本独自の夜の社交場として定着していきました。
誕生したばかりのころのスナックは、今のイメージとは少し違う、時代の最先端をいく店でした。東京では青山や赤坂といった高級な盛り場に店を構え、ジュークボックスが置かれ、踊れるスペースやバンドが入る店もあったといいます。1970年代に入ると、8トラックのテープを使ったカラオケが登場し、スナックで歌うことが定番となっていきました。その後、レーザーディスクから通信カラオケへと機械は進化していきますが、ママの手拍子に乗せられて常連客が十八番を熱唱するという光景は、今も変わりません。スナックは、日本のカラオケ文化を育てた場所でもあるのです。
同じ1960年代には、男性が女性客をもてなすホストクラブも誕生しています。その起源は、1965年(昭和40年)に東京駅の八重洲口にできた「ナイト東京」とされ、当初は女性客の社交ダンスの相手を務めることがホストの仕事でした。1971年(昭和46年)には新宿・歌舞伎町に「クラブ愛」が開店し、ここから歌舞伎町がホストクラブの中心地となっていきます。ホストクラブもまた、法律の上ではキャバクラと同じ接待飲食店の一つとして、風俗営業の許可のもとで営業しています。
キャバクラの誕生
1980年代に入ると、キャバレーの「キャバ」とクラブの「クラ」を組み合わせた、キャバクラが登場します。日本で最初のキャバクラは東京・池袋に生まれたとされ、1985年(昭和60年)には「キャバクラ」が新語・流行語大賞に選ばれるほど、瞬く間に世の中に広がっていきました。
キャバクラが支持を集めた理由は、高級クラブのような雰囲気を、キャバレーのような気軽な料金で楽しめるところにありました。1時間いくらというセット料金を基本とし、指名料やドリンク代を明示する料金体系は、銀座の高級クラブのように請求額が読めない不安を取り除き、若いサラリーマンや学生にまで客層を広げることにつながりました。素人らしさや親しみやすさを売りにした接客は、関西で生まれたアルサロの流れにも通じるものといえます。
キャバクラが誕生したころ、風営法も大きな転換期を迎えていました。1984年(昭和59年)の改正で、法律の名称が「風俗営業等取締法」から現在の「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に改められ、取り締まり中心だった法律の性格そのものが見直されたのです。法律の上では、ダンスを伴わないキャバクラはキャバレーではなく、待合や料理店、カフェーと同じ2号営業として、許可のもとで営業することになりました。
平成に入ると、キャバクラはさらに進化を続けます。キャストがファッション誌やテレビに登場して人気を集めたり、豪華な内装の大型店が次々と誕生したりと、キャバクラは一つの大衆文化として社会に定着していきました。かつて昭和のサラリーマンがキャバレーに通ったように、平成のサラリーマンはキャバクラに通い、接待飲食店の主役の座は、名実ともにキャバレーからキャバクラへと引き継がれていったのです。
キャバレーからダンスが消えた日
接待飲食店の歴史の中で、意外と知られていないのが、2016年(平成28年)6月に施行された風営法改正によって、キャバレーの法律上の位置づけが大きく変わったことです。それまでの風営法では、キャバレーは「ダンス+接待+飲食」の1号営業、キャバクラなどは「接待+遊興または飲食」の2号営業として、別々の区分で規制されていました。1959年の改正以来、ダンスこそがキャバレーとほかの接待飲食店とを分ける境界線だったのです。
ところが、深夜営業のクラブが相次いで摘発されたことをきっかけに、客にダンスをさせることそのものを規制するルールに批判が集まり、2015年に成立した改正法で、ダンスは風俗営業の要件から外されることになりました。その結果、キャバレーとキャバクラとを分けていた理由がなくなり、旧1号と旧2号は一つにまとめられて、現在の第1号「キャバレー、待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」が生まれたのです。
つまり現在の法律では、キャバレーもキャバクラもホストクラブも、そして接待を伴うスナックも、すべて同じ1号営業として、同じ許可のもとで営業していることになります。戦後の夜の街を彩ったダンスとショーのキャバレーは、法律の上でもその特別な地位を失い、接待飲食店という大きな家族の一員に溶け込んでいったといえるでしょう。
それでも条文の冒頭に「キャバレー」の名前が残り続けているのは、この言葉が、接待飲食店という営業の原点を象徴する存在だからなのかもしれません。条文の中に並ぶキャバレー、待合、料理店、カフェーという四つの言葉は、戦後の夜の街の記憶を今に伝える、ちょっとした歴史の地層のようなものなのです。
そして令和へ
2000年代に入ると、夜の街にはまた新しい顔ぶれが加わっていきます。その一つが、バーカウンターの内側に立つ若い女性スタッフと、お酒を片手に気軽な会話を楽しむガールズバーです。重厚な扉の向こうにある高級クラブや、指名や延長に気をつかうキャバクラとは違い、ふらりと立ち寄って一杯だけ飲んで帰れる身軽さが受けて、ガールズバーは若い世代を中心に、全国の繁華街へと広がっていきました。
同じころ、もう一つの新しい文化が、東京の秋葉原で産声を上げます。2001年に開店した「キュアメイドカフェ」は、クラシカルなメイド服を着た店員が紅茶や料理で客をもてなす店で、日本で最初のメイドカフェとされています。アニメやゲームの街として知られる秋葉原の土地柄も追い風となり、メイドカフェは瞬く間に話題を集め、キュアメイドカフェはアニメ作品の舞台にも登場して、今もファンから「聖地」として親しまれる存在となりました。
その後の秋葉原では、メイドカフェが雨後の筍のように誕生していきます。2011年末の時点で、秋葉原には132のメイド系の店舗やサービスがあったといわれる一方、それまでに閉店した店も150にのぼっていたというのですから、ブームの裏側ではまさに栄枯盛衰のドラマが繰り広げられていたわけです。やがてメイドから始まったコンセプトは、アイドルや執事、アニメのキャラクター、さらには男性キャストが女性客をもてなす「メンコン」へと枝分かれし、今ではコンセプトカフェ、略して「コンカフェ」と呼ばれる一大ジャンルに成長しています。明治の銀座でカフェーの女給が客を迎えてから約100年、平成の秋葉原ではメイドが「おかえりなさいませ」と客を迎えるようになったというのは、なんとも味わい深い歴史のめぐり合わせではないでしょうか。
そして令和の時代、夜の街はまた一つの転機を迎えます。ホストクラブで、客の恋愛感情につけ込んで高額なシャンパンを次々と注文させ、支払いきれないほどのツケを背負わせるといった悪質な手口が報じられ、大きな社会問題となったのです。こうした事態を受けて、2025年(令和7年)には風営法が改正され、いわゆる「色恋営業」が禁止されることになりました。江戸の茶屋で芸者が客をもてなした時代から数百年、客と店との駆け引きは、ついに恋心という目に見えない領域にまで、法律の光が当てられるところまで来たのです。
江戸の茶屋、明治のカフェー、戦後のキャバレー、昭和のスナックとアルサロ、平成のキャバクラ、そして令和のガールズバーやコンカフェへ。夜の街の主役は時代とともに何度も入れ替わってきましたが、誰かと酒を酌み交わし、他愛もない会話に笑い合いたいという人の気持ちは、いつの時代も変わることがありません。次に夜の街で色とりどりの看板を見かけたときには、その一つひとつの向こうに、100年以上にわたって積み重ねられてきた物語が眠っていることを、ほんの少しだけ思い出してみてください。
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