日本における性風俗の歴史│吉原遊郭から売春防止法、ソープランド、デリヘルまで

「風俗」という言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、いわゆる性的なサービスを提供する店ではないでしょうか。ソープランドやファッションヘルス、デリバリーヘルスといった店は、法律の上では「性風俗関連特殊営業」と呼ばれ、風営法のもとで届出をして営業しています。けれども、こうした業態が今の形になるまでには、400年を超える長い道のりがありました。
江戸時代には、幕府が公認した遊郭が都市の一角に築かれ、遊女たちは浮世絵や芝居の題材として、江戸文化の華やかな一面を担っていました。その一方で、遊女の多くは借金に縛られた年季奉公の身であり、華やかさの裏側には、決して見過ごすことのできない過酷な現実がありました。性風俗の歴史は、文化の歴史であると同時に、人の尊厳をめぐる議論の歴史でもあるのです。
明治の「解放令」、戦後のGHQによる公娼廃止、赤線と青線の時代、そして売春防止法の施行と、日本の性風俗は、公に認められる時代と、黙認される時代、禁止される時代を何度も行き来してきました。そのたびに業態は姿を変え、トルコ風呂からソープランドへ、店舗型から無店舗型へと、法律の網の目をくぐるようにして形を変えながら、現在まで続いています。
本稿では、江戸の吉原遊郭から、明治の公娼制度、戦後の赤線と売春防止法、トルコ風呂の誕生とソープランドへの改名、1984年と1998年の風営法改正までを、法律の移り変わりとともにたどっていきます。好奇心だけではなく、その時代を生きた人々の姿にも思いを寄せながら、日本の性風俗の歩みを振り返ってみましょう。
目 次
吉原と江戸の遊郭
日本の性風俗の歴史を語るうえで欠かせないのが、江戸の吉原遊郭です。江戸の町が築かれ始めた17世紀の初め、江戸城の建設に携わる人々が集まる場所には、遊女屋が市中のあちこちに散らばっていました。これらを一か所にまとめて管理しようと、1617年(元和3年)、幕府は庄司甚右衛門の願い出を受けて、日本橋葺屋町に遊郭の開設を許可します。葦の茂る湿地を埋め立ててつくられたことから、当初は「葭原(よしわら)」と呼ばれ、のちに縁起のよい「吉原」の字に改められました。
吉原は江戸で唯一の公許の遊郭として発展しましたが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失したことをきっかけに、浅草寺の裏手にあたる日本堤へと移されます。以後、日本橋にあった最初の吉原は「元吉原」、移転後の吉原は「新吉原」と呼ばれるようになりました。新吉原は高い塀と「おはぐろどぶ」と呼ばれる堀に囲まれ、大門がほぼ唯一の出入口という、外の世界から隔てられた空間だったのです。
幕府公認の格式を誇った吉原には、最盛期には数千人の遊女がいたといわれ、教養や芸事を身につけた最高位の遊女は、客を選ぶことさえ許されていました。吉原の風俗は喜多川歌麿をはじめとする浮世絵師たちによって数多く描かれ、遊女の装いや年中行事は江戸の流行を生み出し、吉原は江戸文化の発信地ともなっていきます。大河ドラマの主人公にもなった版元の蔦屋重三郎が、この新吉原で生まれ育ったことはよく知られています。
もっとも、吉原の華やかさは、遊女たちの過酷な境遇と表裏一体のものでした。遊女の多くは、貧しい家から前借金と引き換えに売られてきた年季奉公の身であり、借金を返し終えるまで遊郭から出ることはできませんでした。浮世絵に描かれた美しい姿の裏に、自由を奪われた女性たちの人生があったことは、この歴史を振り返るうえで決して忘れてはならない視点といえるでしょう。
明治の「解放令」と貸座敷
明治に入ると、遊郭のあり方を大きく揺さぶる出来事が起こります。1872年(明治5年)7月、横浜港に停泊していたペルー船マリア・ルス号から、中国人の労働者が逃げ出し、明治政府はこれを人身売買にあたるとして解放しました。ところが、その後の裁判でペルー側は、日本にも遊女という名の人身売買があるではないかと反論し、日本政府は国際的な非難にさらされることになったのです。
窮地に立たされた明治政府は、同じ年の10月、娼妓や芸妓の年季奉公を禁じ、前借金を無効とする布告を出しました。これが「芸娼妓解放令」と呼ばれるもので、続いて出された司法省の通達が「娼妓芸妓は人身の権利を失った者で牛馬と同じであり、牛馬に借金の返済を迫ることはできない」という趣旨の表現を用いたことから、「牛馬切りほどき令」とも呼ばれました。
しかし、この解放令は、女性たちの人権を本気で守ろうとするものではありませんでした。解放された女性たちの生活を支える仕組みはなく、翌1873年には、遊女屋が「貸座敷」と名前を変え、娼妓が自らの意思で座敷を借りて営業するという建前のもとで、公認の売春制度は形を変えて復活します。解放令は、外国の目を意識して体面を取りつくろったにすぎず、遊郭の実態はほとんど変わらなかったのです。
それでも、解放令は、のちの廃娼運動の導火線となりました。1886年には東京婦人矯風会が発足し、救世軍なども娼妓の自由廃業を支援する運動を展開します。1900年(明治33年)には、政府が娼妓取締規則を公布し、娼妓になれる年齢を18歳以上とし、自由廃業の規定を明文化しましたが、前借金の返済をめぐる判決によって、実際に廃業することは容易ではありませんでした。公認の売春制度は、こうして形を変えながら、戦後まで続いていくことになります。
公娼廃止と赤線・青線
太平洋戦争が終わると、日本の公娼制度は大きな転機を迎えます。1946年(昭和21年)1月21日、GHQは日本政府に対して覚書「日本における公娼の廃止」を発し、公娼制度は民主主義の理想に反し、個人の自由の発達と矛盾するとして、その廃止を命じました。これを受けて、明治以来の娼妓取締規則などの関係法規は廃止され、桃山時代から続いてきたともいわれる公認の売春制度は、形の上では幕を閉じることになります。
ところが、公娼の廃止は、売春そのものの禁止を意味するものではありませんでした。旧遊郭の貸座敷業者は、自ら廃業したことにして看板を「特殊飲食店」に掛け替え、働く女性たちは、前借金に縛られず自分の意思で働く「接待婦」という建前のもとで、営業を続けたのです。1946年11月には、政府の次官会議が、特殊飲食店での売春行為を事実上認める決定を行い、こうして「赤線」と呼ばれる売春街が誕生しました。
赤線という呼び名は、警察が地図の上で該当する区域を赤い線で囲んで管理していたことに由来するといわれています。東京の吉原や洲崎、大阪の飛田や松島など、全国の主要都市に赤線が置かれ、店の多くは「カフェー」や「特殊飲食店」という名目で営業していました。一方、こうした黙認区域の外で営業していた非公認の地域は「青線」と呼ばれ、赤線とは区別されていました。
戦後の混乱期、赤線と青線は、焼け跡で生きる糧を求める多くの女性たちの受け皿となりました。売春防止法が施行される直前の時点で、全国の赤線の施設は約3万9000軒、そこで働く女性は約12万人にのぼっていたといわれます。公娼を廃止したはずの日本で、事実上の公認売春が10年以上にわたって続いたというのは、戦後の日本社会が抱えた矛盾の象徴といえるのかもしれません。
売春防止法と赤線の灯が消えた日
赤線の存在に終止符を打ったのが、売春防止法です。戦後、市川房枝ら女性議員たちが超党派で廃娼に取り組み、何度かの否決を経て、1956年(昭和31年)5月、売春防止法がついに成立しました。法律は翌1957年4月1日に施行され、罰則の規定はさらに1年後の1958年4月1日から適用されることになります。
この猶予期間のうちに、全国の赤線の業者は次々と廃業していきました。罰則が適用される直前の1958年3月、赤線の店は一斉に灯を落とし、江戸時代の吉原から数えれば300年以上にわたって続いてきた遊郭の歴史は、ここで一つの区切りを迎えます。業者側は猶予期間の延長や国による補償を求めて激しく抵抗し、業者団体の関係者が国会議員への贈賄容疑で逮捕される事件まで起きました。
売春防止法の第1条は、売春が「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすもの」であると定めています。ただし、この法律が処罰の主な対象としたのは、売春の場所を提供したり、女性を管理して売春をさせたりする業者の側であり、売春をする個人やその相手方を直接処罰する規定は設けられませんでした。売春をしてはならないと宣言しながら、個人の行為には罰則を設けないという、この独特の構造が、その後の性風俗のあり方に大きな影響を与えていくことになります。
実際、売春防止法の施行後も、売春がなくなったわけではありませんでした。赤線が廃止された当時の推計で約50万人いたとされる売春に関わる女性は、施行から2年後の1960年ごろになっても約25万人を数えたといわれます。法律で禁じられた行為は、建前を変え、場所を変えて続いていくことになり、その受け皿の一つとなったのが、次に紹介するトルコ風呂だったのです。
トルコ風呂からソープランドへ
日本で最初の「トルコ風呂」が誕生したのは、1951年(昭和26年)4月1日のことです。東京・東銀座に開店した「東京温泉」は、射撃の日本代表として海外に渡った経営者が、現地で体験した蒸し風呂に感動してつくった施設で、ボックス式の個人用スチームバスで汗を流した後、「ミス・トルコ」と呼ばれる女性が白衣を着て垢すりやマッサージを施すという、健全な入浴施設でした。東京温泉そのものは、その後も性的なサービスを厳禁とする姿勢を崩さなかったといいます。
ところが、個室で女性がマッサージを行うという形態は、ほかの店では次第に性的なサービスへと結びついていきます。トルコ風呂は1953年には都内で20店、全国で70店にまで広がり、売春防止法が施行されて赤線が姿を消すと、行き場を失った人々の受け皿として、「個室付浴場」の許可を受けたトルコ風呂が性風俗の主役へと躍り出ていきました。浴場という建前と、個室の中で行われる行為との間には、売春防止法の線引きをめぐる「建前と本音」が横たわっていたのです。
「トルコ風呂」という名前は、1980年代に大きな問題となります。トルコ風呂は略して「トルコ」と呼ばれるようになり、多くの日本人が「トルコ」と聞いて国の名前ではなく性風俗店を思い浮かべるようになってしまったのです。1984年(昭和59年)、日本に留学していたトルコ人の青年が、当時の厚生大臣に名称の変更を訴え、トルコ大使館も強く抗議したことから、業界は新しい名前を公募し、こうして生まれたのが「ソープランド」という呼び名でした。
一国の名前が性風俗の代名詞として使われ続けていたという事実は、今振り返ると驚くべきことですが、それだけトルコ風呂が日本社会に深く根を張っていたことの表れでもあります。名前を変えたソープランドは、その後も店舗型の性風俗の代表格として存続しており、浴場としての許可と、売春防止法との関係をめぐる議論は、今も完全には決着していません。
1984年の大改正と店舗型の時代
1984年(昭和59年)は、性風俗の歴史にとってもう一つの大きな節目の年となりました。この年、風俗営業等取締法が大幅に改正され、法律の名称が現在の「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に改められます。改正法は1985年2月13日に施行され、それまで法律の網の外にあった性風俗の店が、新たに「風俗関連営業」として、公安委員会への届出制のもとに置かれることになりました。
この改正の大きな特徴は、都道府県が条例で地域を定め、性風俗の店の営業を禁止できるようにした点にあります。改正法の施行の時点ですでに届出をして営業していた店は、経過措置として営業を続けることが認められましたが、新たに店を構えることは、多くの地域で事実上ほとんどできなくなりました。今もソープランドが特定の歓楽街に集まっているのは、このときに営業を続けることを認められた店が、古くからの場所で営業を続けているためです。
1984年の改正では、ラブホテルも風営法の規制の対象に加えられました。それまで旅館業法のもとで一般のホテルと同じ扱いを受けていたラブホテルは、回転ベッドや一定の大きさ以上の鏡などを備えたものが「風俗関連営業」として、警察の監督下に置かれることになったのです。その結果、新しくホテルを建てる業者の中には、ラブホテルとみなされるのを避けて、奇抜な外観や内装を控える動きが広がり、昭和の象徴だった回転ベッドは次第に姿を消していきました。
この時期には、1970年代末から80年代にかけて流行した「ノーパン喫茶」や「のぞき部屋」といった新しい業態も、改正によって大きな影響を受けたといわれています。規制が強まった業態が姿を消す一方で、ファッションヘルスのように、個室でのサービスを提供しながら規制の枠内に収まる業態が増えていくなど、性風俗の世界は、法律が変わるたびに、その隙間を縫うように姿を変えていったのです。
店舗から無店舗へ、そして現在
1990年代に入ると、性風俗は再び大きく姿を変えていきます。店舗型の新規出店が厳しく制限される中で広がっていったのが、店舗を構えずに、客の自宅やホテルに女性を派遣する営業でした。こうした変化を受けて、1998年(平成10年)には風営法が改正され、それまでの「風俗関連営業」は「店舗型性風俗特殊営業」に名前を改められるとともに、派遣型の営業などを「無店舗型性風俗特殊営業」として、新たに届出制の対象に加えることになりました。
同じ改正では、インターネットを通じて有料でアダルト映像を配信する営業も「映像送信型性風俗特殊営業」として規制の対象となり、事業者に届出を義務づけるとともに、18歳未満の者を客とすることが禁じられました。インターネットの普及が始まったばかりのこの時期に、早くもネット上の性風俗にまで法律の網が広げられたことは、時代の変化の速さを物語っています。こうして、いわゆるデリバリーヘルスは、法律の上でも一つの営業形態として位置づけられ、店舗型に代わって性風俗の主流となっていきました。
その後も、性風俗をめぐる法律は時代の変化に合わせて見直しが続けられています。2011年(平成23年)には、いわゆる「出会い系喫茶」が店舗型性風俗特殊営業の一つとして規制の対象に加えられ、ラブホテルとして扱われる施設の要件も見直されました。新しい業態が生まれては法律がそれを追いかけるという構図は、江戸の昔から令和の今まで、少しも変わっていないといえるでしょう。
吉原遊郭の誕生から400年余り、日本の性風俗は、公認、黙認、禁止という三つの扱いの間を揺れ動きながら、その時々の法律の線引きに合わせて形を変えてきました。その歴史は、人の欲望が法律で簡単には消せないことを示すと同時に、その陰で自由を奪われ、尊厳を傷つけられてきた多くの女性たちの存在を、私たちに思い起こさせます。性風俗をめぐる議論は今も続いていますが、その議論の土台には、こうした長い歴史の積み重ねがあることを、心に留めておきたいものです。
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