パチンコの歴史│縁日の子ども遊びから30兆円産業へ、大衆娯楽100年の物語

昭和レトロなゲームセンター

駅前の大通りや郊外の幹線道路沿いに、ひときわ派手なネオンを輝かせて建つパチンコ店は、日本の街並みにすっかり溶け込んだ存在です。最盛期には全国に1万8千を超える店舗がひしめき、市場規模は30兆円にのぼるともいわれ、自動車産業にも匹敵する巨大な娯楽産業として、日本経済の一角を占めてきました。打ったことがない人でも、あの独特の音と光、店の前に並ぶ新台入替の幟には、どこかなじみがあるのではないでしょうか。

ところが、そのパチンコが、もともとは縁日の夜店や駄菓子屋の店先で子どもたちが1銭玉を握りしめて遊んだ、素朴なおもちゃだったことを知る人は、それほど多くありません。小さな鋼球を指ではじいて穴に入れるだけの他愛もない遊びが、戦争による禁止、焼け跡での爆発的な復活、行き過ぎた機械に対する規制、そして独特の換金の仕組みの誕生といった紆余曲折を経て、世界に類を見ない巨大産業へと成長していきました。

その歴史をたどっていくと、パチンコが単なるギャンブルの一種ではなく、戦後の日本人の暮らしや欲望、そして法律との綱引きを映し出す鏡のような存在であることが見えてきます。なぜパチンコだけが景品と交換できるのか、なぜ店の隣に景品を買い取る小さな窓口があるのか、なぜ台の性能にまで国が細かく口を出すのか、こうした素朴な疑問の答えは、すべてこの100年の歴史の中に隠れています。

本稿では、パチンコの誕生から戦後の黄金期、三店方式の誕生、30兆円産業への成長、そして規制強化と業界の縮小が進む令和の現在まで、パチンコがたどってきた100年の道のりを、風営法との関わりにも触れながら振り返っていきます。

縁日の子ども遊びから始まった

パチンコの起源については諸説ありますが、その源流は、ヨーロッパで生まれたバガテルと呼ばれる卓上ゲームや、それをもとにアメリカで作られたコリントゲームにあるといわれています。板の上に打たれた釘の間を玉が転がり、穴に入れば得点になるという遊びで、これが大正時代の終わりごろに日本へ伝わり、やがて板を縦に立てた形へと姿を変えていきました。

昭和の初めになると、この縦型のゲーム機が、縁日の夜店や駄菓子屋の店先に置かれるようになります。子どもたちが1銭を払って玉を弾き、うまく穴に入れば飴やキャラメルがもらえるという、いかにも牧歌的な遊びで、玉が釘や盤面に当たる「パチン」という音から、いつしかパチンコという名前で呼ばれるようになったというのが通説です。地域によっては「ガチャンコ」「パチパチ」などと呼ばれていたともいわれ、呼び名ひとつにも、まだ遊びの形が固まっていなかった時代の自由さがうかがえます。

この時代のパチンコは、今のようにハンドルを回して玉を連続して打ち出すものではなく、一発ずつ玉を手で入れ、指ではじいて打ち出す単発式のものでした。台の構造も単純で、釘の配置も今ほど緻密ではなく、勝ち負けといっても、せいぜい駄菓子が一つもらえるかどうかという程度のものでした。それでも、子どもたちにとっては、自分の指先ひとつで玉の行方が変わるという手応えがたまらなく面白く、夜店の人気者になっていったのです。

やがてこの遊びは、子どもだけでなく大人の心もつかんでいきます。仕事帰りの労働者が小銭で気軽に楽しめる娯楽として、パチンコは次第に盛り場へと進出し、景品もお菓子からたばこや日用品へと変わっていきました。縁日の片隅で生まれた子どもの遊びが、大人の娯楽へと脱皮していく最初の一歩が、ここで踏み出されたのです。

名古屋で生まれた大衆娯楽

パチンコの歴史を語るうえで欠かせない土地が名古屋です。昭和の初め、名古屋ではパチンコ台を作る職人や、パチンコを専門に営業する店が次々と現れ、1930年(昭和5年)には、名古屋でパチンコ店が初めて営業の許可を受けたといわれています。この出来事をもって、パチンコが縁日の遊びから、許可を受けた正式な商売へと格上げされた瞬間とみる見方も少なくありません。

名古屋がパチンコの聖地となった背景には、この地域が古くから木工や機械づくりに長けたものづくりの町であったことが挙げられます。台の木枠を作る職人、釘を打つ職人、玉を作る金属加工の技術がそろっていたことで、パチンコ台の製造が地場産業として根づき、今でもパチンコ台のメーカーの多くが名古屋とその周辺に本社を構えているのは、この時代の名残だといえます。

しかし、大衆の娯楽として広がりを見せ始めたパチンコに、やがて冬の時代が訪れます。日中戦争が始まり、国全体が戦時体制へと突き進んでいく中で、娯楽は不要不急のものとして締め付けを受けるようになり、パチンコ店の新規開店は制限され、やがて戦争の激化とともに営業そのものが禁じられていきました。台の材料となる鉄や木材までもが軍需に回される時代にあって、パチンコは表舞台から完全に姿を消すことになったのです。

ほんの十数年の間に、縁日の遊びから正式な商売へと成長し、そして戦争によって一度は消滅するという、パチンコの最初の物語は、こうして幕を閉じます。ところが、パチンコという遊びの生命力は、多くの人が想像していたよりもはるかにしぶといものでした。

焼け跡の熱狂と連発式禁止

終戦からほどなくして、パチンコは焼け跡の中から驚くべき速さで復活を遂げます。物資も娯楽も乏しい時代にあって、わずかな小銭で長い時間を楽しめ、運がよければたばこや石けん、砂糖といった貴重な生活物資まで手に入るパチンコは、人々にとってこの上ない息抜きとなり、全国の盛り場に次々と店が生まれていきました。1948年(昭和23年)に制定された風俗営業取締法が、麻雀屋と並んでパチンコ店を規制の対象に加えたのも、それだけパチンコが急速に広がっていたことの表れといえます。

この戦後の復活期に、パチンコを大きく進化させた人物として知られるのが、名古屋の正村竹一です。正村は、盤面の釘の配置を工夫し、玉が予想のつかない動きをしながら盤面を流れ落ちる「正村ゲージ」と呼ばれる釘の並べ方を考案しました。この配置によって、玉の動きに見る楽しみが加わり、パチンコのゲーム性は飛躍的に高まって、現在のパチンコ台の盤面にも、その考え方は受け継がれているといわれています。

さらに、玉を一発ずつ手で入れていた単発式に代わって、玉を連続して打ち出せる連発式の台が登場すると、パチンコの人気は爆発的に高まります。わずかな時間で大量の玉を打ち出し、大量の玉を獲得できる連発式は、まるで機関銃のような興奮を客にもたらし、1950年代の前半には全国の店舗数が4万軒を超えたともいわれる、空前のパチンコブームが巻き起こりました。

しかし、この連発式の台は短時間で大金をつぎ込ませるほど射幸性が高く、生活を破綻させる客が続出したことから社会問題となり、1954年(昭和29年)ごろ、警察は連発式の台を禁止する措置に踏み切ります。この規制によってパチンコ人気は一気に冷え込み、全国の店舗数は数年のうちに数分の一にまで激減しました。熱狂と規制、そして急激な縮小という流れは、この後もパチンコの歴史の中で何度も繰り返されることになります。

チューリップからフィーバーへ

連発式の禁止で冷え込んだパチンコ業界を再び活気づけたのは、台そのものの工夫でした。1960年代に入ると、盤面に設けられた入賞口が、玉が入ると花びらのように開いて次の玉を入れやすくする「チューリップ」と呼ばれる役物が登場し、大ヒットを記録します。開いたチューリップに玉が吸い込まれていく様子は、見ているだけで心が躍るもので、射幸性を抑えながらも遊びの楽しさを高めるこの仕掛けによって、パチンコは再び大衆の娯楽としての地位を取り戻していきました。

1970年代には、指で一発ずつ玉を弾く方式に代わって、ハンドルを回すだけで一定の間隔で玉が打ち出される電動式のハンドルが認められ、パチンコの打ち方そのものが大きく変わります。ハンドルを握ったまま盤面の玉の動きに集中できるようになったことで、パチンコはより手軽で、より長時間楽しめる娯楽へと姿を変え、女性や高齢者の客層も少しずつ広がっていきました。

そして1980年(昭和55年)、パチンコの歴史を塗り替える台が登場します。盤面の中央に設けられたデジタル表示の数字がそろうと、大当たりとなって大量の玉が一気に払い出されるという仕組みを備えた「フィーバー」と呼ばれる機種です。それまでのパチンコが、釘と役物による玉の動きを楽しむものだったのに対し、フィーバー機は、数字がそろう瞬間の緊張感と、大当たりの爆発的な興奮という、まったく新しい楽しみを持ち込みました。

フィーバー機の登場により、大当たりの一発逆転を夢見る客が店に押し寄せ、パチンコは再び熱狂の時代を迎えますが、同時に射幸性の高まりも避けられませんでした。同じころには、スロットマシンを日本独自に改良したパチスロも登場し、パチンコ店は、玉の動きを楽しむ遊技場から、大当たりの興奮を求める客が集まる場所へと、その性格を大きく変えていくことになります。

大阪で生まれた三店方式

パチンコの歴史の中でも、とりわけ独特なのが、景品と現金をめぐる仕組みです。風営法は、パチンコ店が客に現金を渡したり、客から景品を買い取ったりすることを禁じる一方で、獲得した玉の数に応じて景品を提供することは認めています。では、なぜ多くの客がパチンコで勝ったお金を手にできるのか。その答えが、いわゆる「三店方式」と呼ばれる仕組みです。

三店方式とは、パチンコ店、景品を買い取る景品交換所、景品を卸す問屋という三つの独立した事業者が、特殊景品と呼ばれる小さな景品をぐるぐると循環させる仕組みのことをいいます。客はパチンコ店で玉を特殊景品と交換し、店の外にある交換所でその景品を売って現金を受け取り、交換所は買い取った景品を問屋に売り、問屋はそれを再びパチンコ店に卸すという流れであり、パチンコ店自身は一度も客に現金を渡していないという形が保たれています。

この仕組みの原型は、1960年代の初めに大阪で生まれたといわれており、「大阪方式」とも呼ばれています。当時、パチンコの景品を客から買い取る商売は暴力団の資金源となっていて、店の周辺では景品の買い取りをめぐるトラブルが絶えませんでした。そこで大阪の業界関係者が、警察とも連携しながら、景品の買い取りを戦争で夫を亡くした女性や障害のある人などで作る福祉団体に担わせることで、暴力団を景品の流通から締め出そうとしたのが始まりだといわれています。

暴力団排除という切実な目的から生まれた大阪方式は、やがて全国に広がり、パチンコ業界を支える独特の仕組みとして定着していきました。もっとも、景品を介して事実上の換金が行われているという実態に変わりはなく、三店方式が賭博にあたるのではないかという議論は、今も繰り返し持ち上がっています。それでも、この仕組みが半世紀以上にわたって続いてきたこと自体が、パチンコという娯楽が、法律と現実との間の絶妙な均衡の上に成り立ってきたことを物語っているといえるでしょう。

30兆円産業の光と影

1984年(昭和59年)の風営法の大改正を経て、パチンコ台は国の定める基準に適合しているかどうかを検定で確かめられる仕組みが整えられ、台の性能そのものが法律の管理下に置かれるようになりました。玉が出すぎる台は認められず、射幸性の上限は規則によって細かく定められるという、娯楽産業としては異例ともいえるほど緻密な規制のもとで、パチンコは成長を続けていきます。

1990年代に入ると、プリペイドカードで玉を借りるCR機と呼ばれる台が登場します。現金の流れを透明にして脱税や暴力団への資金流出を防ぐという狙いのもとで導入されたものでしたが、CR機には大当たりの後に再び大当たりを引きやすくなる「確変」という機能が認められたことから、一度当たれば大量の玉が出続ける爆発的な台が次々と生まれ、パチンコの人気は頂点へと上り詰めます。1990年代半ばには、全国の店舗数が1万8千を超え、市場規模は30兆円に達したともいわれ、パチンコは名実ともに日本最大級のレジャー産業となりました。

しかし、その繁栄の裏側では、射幸性の高い台に多額のお金をつぎ込み、借金を重ねて生活を破綻させる人が後を絶たず、真夏の駐車場に止めた車の中に幼い子どもを置き去りにしたまま親がパチンコに興じ、子どもが熱中症で命を落とすという痛ましい事件も繰り返し報じられました。パチンコへののめり込みは、個人の問題を超えた社会問題として、厳しい目を向けられるようになっていったのです。

2000年代の初めには、パチスロでも一度に数十万円が動くといわれるほど射幸性の高い機種が大流行し、規制当局との緊張は一層高まります。こうした状況を受けて、国は規則を改めて射幸性を大幅に抑えた台への入れ替えを業界に求め、爆発的な台は数年のうちにホールから姿を消していきました。熱狂が行き過ぎれば規制が入り、そのたびに業界が縮小していくという、1950年代の連発式禁止から続く構図が、ここでも繰り返されたのです。

規制強化と令和のパチンコ

2010年代に入ると、パチンコをめぐる風向きはさらに厳しくなります。カジノを含む統合型リゾートの整備をめぐる議論の中で、日本のギャンブル依存症の問題が改めて注目を集め、2018年(平成30年)にはギャンブル等依存症対策基本法が成立しました。同じ年には、パチンコ台の出玉の上限をそれまでのおおむね3分の2に抑える規則の改正も行われ、業界は射幸性を抑えながら客を楽しませるという、難しい課題に向き合うことになります。

追い打ちをかけるように、2020年(令和2年)には改正健康増進法の全面施行によって、パチンコ店も原則として屋内が禁煙となりました。たばこの煙が立ちこめる店内というかつての当たり前の光景は姿を消し、喫煙所を設けて分煙を進める店が増える一方で、たばこを吸いながら打つことを楽しみにしていた常連客の足が遠のいたともいわれています。同じ年には新型コロナウイルスの感染拡大で休業を求められる店も相次ぎ、業界は大きな打撃を受けました。

こうした逆風の中で、全国の店舗数は減少の一途をたどり、最盛期の半分にも満たない水準にまで落ち込んでいます。かつて駅前の一等地を競うように占めていたパチンコ店が閉店し、跡地がドラッグストアやマンションに姿を変えていく光景は、今や全国のどの街でも見られるようになりました。一方で、玉やメダルを台の内部で循環させ、客が直接触れることのないスマートパチンコやスマートパチスロと呼ばれる新しい台が登場するなど、業界は生き残りをかけた模索を続けています。

縁日の夜店で子どもたちが1銭玉を握りしめて遊んだ素朴なおもちゃが、戦争、焼け跡の熱狂、規制との綱引き、暴力団排除から生まれた独特の換金の仕組み、そして30兆円産業への成長と縮小を経て、今に至るまでのパチンコの100年は、そのまま日本人の娯楽と欲望、そして法律との付き合い方の歴史でもあります。次に街でパチンコ店のネオンを見かけたとき、その光の向こうに積み重なった長い物語に、ほんの少しだけ思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

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