日本のギャンブル史│双六禁止令から富くじ、競馬、宝くじ、カジノまで1300年の攻防

日本では、賭博は刑法で禁じられた犯罪です。それなのに、街を歩けば競馬や競艇の場外券売所があり、年末には宝くじ売り場に長い行列ができ、パチンコ店のネオンが夜の街を照らしています。さらに大阪では、カジノを含む統合型リゾートの建設も進んでいます。「賭博は違法」という建前と、私たちの身の回りにあふれるギャンブルの現実は、どのようにして折り合いをつけてきたのでしょうか。
その答えを探るために、日本のギャンブルの歴史をさかのぼると、意外な事実に行き当たります。日本最古の賭博禁止令は、今から1300年以上も前、飛鳥時代に出されていたのです。それ以来、時の権力者たちは何度も賭博を禁じ、人々は何度もその禁を破り、そして国家自身もまた、財源が必要になるたびに、賭博を「公認」してきました。
日本のギャンブル史は、禁止と公認の間を行き来してきた、1300年にわたる攻防の歴史です。江戸の寺社で行われた富くじ、明治政府が禁じた馬券、終戦の日まで売られていた「勝札」、そして戦後の復興を支えた競輪や競艇。その一つひとつに、時代の事情と人々の欲望が色濃く映し出されています。
本稿では、飛鳥時代の双六禁止令から、江戸の富くじと賭場、明治の刑法と競馬法、戦争と宝くじの誕生、戦後の公営競技、そして現代のカジノとオンラインカジノまで、日本のギャンブルの歩みを、肩の力を抜いてたどっていきます。
目 次
1300年前の「双六禁止令」
日本のギャンブル史の幕開けは、意外にも双六から始まります。ここでいう双六は、サイコロを振ってゴールを目指す子どもの遊びではなく、盤の上に白と黒の駒を並べて陣地を取り合う「盤双六」と呼ばれるゲームです。インドや古代エジプトにもルーツがあるといわれる盤双六は、中国を経由して日本に伝わり、貴族などの上流階級の間で流行しました。
ところが、盤双六はサイコロの目で勝負が決まることから、やがて賭け事に使われるようになります。そのため、持統天皇3年(689年)12月には「双六禁止令」が出されたことが『日本書紀』に記されています。これが、記録に残る日本最古の賭博禁止令とされています。
その後も、禁止令は繰り返し出されました。天平勝宝6年(754年)の禁止令では、賭博にのめり込む者は多くの罪を犯し、親を敬わず、仕事を失うと記されており、ギャンブルが人生を狂わせるという認識は、奈良時代の人々もすでに持っていたことが分かります。平安時代の長徳4年(998年)には一条天皇も双六禁止令を出しており、鎌倉幕府もまた、13世紀に賭博を禁じる命令を出しています。
それでも、双六の人気が衰えることはありませんでした。正倉院には桓武天皇が愛用したとされる華麗な螺鈿細工の双六盤が残されており、『源氏物語』や『枕草子』、『徒然草』といった文学作品にも、双六は繰り返し登場します。禁じられても禁じられても、人々は勝負の興奮を手放さなかったのです。何度も同じ禁止令が出されたという事実そのものが、賭博を根絶することがいかに難しかったかを物語っています。
江戸の富くじと賭場
江戸時代に入ると、ギャンブルの世界に「公認」という新しい形が生まれます。それが「富くじ」です。富くじの起源は室町時代にさかのぼるとされますが、江戸時代になると、寺社が建物の再建や修理の費用を集めるために富くじを興行するようになり、江戸幕府も寛永期(1624〜1644年)ごろからこれを公認しました。
富くじの仕組みは、売り出した富札と同じ数の木札を箱に入れ、決められた日に買い手を集めて、錐で木札を突き刺して当たり番号を決めるというものでした。江戸では、谷中の感応寺、目黒不動、湯島天神の富くじが特に有名で、「江戸の三富」と呼ばれました。富札は今の価値で1,500円から2,500円ほどで、当選金は最高で100両、現在の価値で600万円ほどにのぼることもあったといいます。
富くじの人気は、文化・文政期から天保の初めにかけて頂点に達します。富札を買えない庶民の間では、本物の富くじの当選番号を予想して賭ける「影富」と呼ばれる非公認の賭けまで流行し、わずか数文、今の数十円ほどで参加できる手軽さから、大いに広まりました。しかし、こうした過熱ぶりに危機感を抱いた幕府は、天保13年(1842年)、老中・水野忠邦による天保の改革の一環として、富くじの興行を全面的に禁止します。公認の富くじは、ここから100年以上にわたって姿を消すことになりました。
一方、非公認の賭場もまた、江戸の町に根を張っていました。博徒が開く賭場では丁半博打が行われ、胴元は動いたお金の一部を「寺銭」として受け取りました。寺銭という言葉の由来には諸説ありますが、江戸時代に寺の境内で賭場が開かれることが多かったことや、手数料の一部を寺に寄進していたことなどが語源だといわれています。寺社が富くじの興行元であると同時に、賭場の舞台にもなっていたというのは、江戸のギャンブルの奥深さを感じさせます。
明治の刑法と馬券をめぐる攻防
明治に入ると、日本のギャンブルは近代国家の法律のもとで扱われるようになります。明治40年(1907年)に公布され、翌年10月に施行された現行の刑法は、第185条で賭博罪を、第186条で常習賭博罪や賭博場開張図利罪を定めました。このとき、「一時の娯楽に供する物」を賭けた場合は罰しないという例外も設けられており、この規定は形を変えながら、今日の刑法にも受け継がれています。
この時代、ギャンブルをめぐって大きく揺れ動いたのが競馬です。日本では、明治21年(1888年)から横浜の競馬場で馬券が売られ始め、明治39年(1906年)には政府が馬券の発売を黙認するようになります。その背景には、日清・日露戦争で日本の軍馬の質の低さを思い知った政府が、競馬を通じて馬の改良を進めたいという事情がありました。しかし、馬券の熱狂はすぐに社会問題となり、明治41年(1908年)には馬券の発売が禁止されてしまいます。
馬券を売れなくなった競馬場は、客足が遠のいて閑古鳥が鳴くありさまでした。そこで関係者がひねり出したのが、「勝馬投票券」という苦肉の策です。大正2年(1913年)に宮崎競馬場で試みられたこの方式は、当たった投票券を現金ではなくデパートの商品券などで払い戻すことで、禁止された馬券、つまり賭博とみなされないように工夫したものでした。賭博を禁じる法律と、競馬を盛り上げたい人々の知恵比べは、こうして続いていきます。
そして大正12年(1923年)、ついに競馬法が制定され、馬券の発売が法律によって正式に認められ、現金での払い戻しもできるようになりました。この年の8月には札幌競馬場で競馬法施行後初の競馬が開かれ、関東大震災の直後にもかかわらず、目黒競馬場には1万6,000人を超える人々が詰めかけたといいます。刑法で賭博を禁じながら、特別な法律で例外を認めるという、今日まで続く日本のギャンブル規制の基本的な形が、ここで生まれたのです。
戦争と「勝札」、宝くじの誕生
天保の改革で禁じられた富くじが、100年以上の時を経て復活したのは、太平洋戦争の末期のことでした。軍事費の調達に苦しんでいた政府は、債券の売れ行きが限界に達したことから、昭和20年(1945年)7月16日、1枚10円で1等10万円が当たる富くじ「勝札」を発売します。空襲が続く中、街頭や百貨店で売られた勝札の発売最終日は、奇しくも8月15日でした。
終戦によって、勝札は戦費の調達という目的を失い、「勝ち札」ならぬ「負け札」と揶揄されることになります。それでも抽選は8月25日にきちんと行われ、当選者には賞金が支払われました。戦争に勝つための富くじが、戦争に負けた後に抽選されるという、なんとも皮肉な結末でした。
終戦後も、政府は富くじの発行を続けることを決めます。今度の目的は、行き場を失ったお金を吸い上げて激しいインフレを抑えるとともに、戦後の復興資金を集めることでした。こうして昭和20年10月29日、「宝くじ」の名で第1回の政府宝くじが発売されます。1枚10円で1等10万円、物資が欠乏していた時代を反映して、賞金のほかに布地が付き、外れ券4枚をたばこ10本と交換できるという、今では考えられない特典が人気を呼びました。
その後、宝くじの発行は政府から都道府県へと移り、昭和21年(1946年)には福井県が地方くじの第1号となる「ふくふく籤」を発売しています。現在では、当せん金付証票法に基づいて、都道府県と指定都市が宝くじを発行しています。江戸の寺社が建物の修理のために始めた富くじは、こうして戦争と復興の時代を経て、公共事業の財源を集める仕組みとして、現代に受け継がれているのです。
戦後復興と公営競技の時代
戦後の日本では、宝くじに続いて、新たなギャンブルが次々と生まれていきます。戦災で荒廃した地方自治体は深刻な財源不足に苦しんでおり、その財源を確保する手段として期待されたのが、競馬や競輪、オートレース、競艇といった公営競技でした。昭和23年(1948年)には新しい競馬法が制定され、地方自治体などが競馬を開催できるようになります。
同じ昭和23年の11月20日には、福岡県の小倉競輪場で、日本で初めての競輪が開かれました。競輪は日本で生まれた自転車競技で、のちに「KEIRIN」としてオリンピックの正式種目にもなっています。昭和25年(1950年)10月29日には、千葉県の船橋競馬場のコースの内側でオートレースが初めて開催され、昭和27年(1952年)4月には、長崎県の大村競走場で、モーターボート競走、いわゆる競艇が産声を上げました。
こうした公営競技は、本来であれば刑法の賭博罪に触れる行為です。それが合法とされているのは、競馬法や自転車競技法、モーターボート競走法といった特別な法律が、地方財政の改善や関連産業の振興といった公益目的のために、国や自治体などが主催することを定めているからです。刑法は、法令に基づく正当な行為を罰しないと定めており、こうした法律に基づく公営競技は、賭博罪の違法性が否定されるという仕組みになっています。
公営競技の収益は、戦後の公共事業や災害復興、産業振興など、幅広い分野で地方財政を支えてきました。「ギャンブルは悪」という古くからのイメージに対して、「財政への貢献」「社会への貢献」という正当化の理屈を与えることで、本来禁じられている賭博を公認する。江戸の富くじが寺社の修理を名目にしていたのと同じ構図が、戦後の公営競技にも受け継がれているのです。
パチンコと麻雀というグレー
公営競技や宝くじのように特別な法律で認められたギャンブルとは別に、日本には、法律の上では「ギャンブルではない」とされながら、実際には多くの人がお金を賭けて楽しんでいる遊びもあります。その代表が、パチンコと麻雀です。
パチンコは、風営法の許可を受けた「ぱちんこ屋」として営業しており、客が獲得した玉を景品と交換することは認められていますが、現金と交換することは禁じられています。ところが実際には、景品を店の外の景品交換所で現金に換える「三店方式」と呼ばれる仕組みが広く定着しています。パチンコが、建前の上では賭博ではない遊技として扱われながら、事実上のギャンブルとして巨大な産業に成長した経緯については、別の記事で詳しく紹介しています。
麻雀もまた、風営法の許可を受けた雀荘で遊ぶこと自体は合法ですが、お金を賭ければ賭博罪に問われます。それでも、「テンピン」に代表される賭け麻雀の文化は根強く残っており、令和2年(2020年)には、検察の幹部が新聞記者と賭け麻雀をしていたことが発覚して辞職に追い込まれる騒動も起きました。囲碁や将棋は風営法の規制を受けないのに、なぜ麻雀だけが規制されるのかという疑問にも、日本のギャンブル規制の考え方が表れています。
このように、日本のギャンブル規制は、刑法で賭博を全面的に禁じたうえで、特別な法律で公認したもの、風営法の許可のもとで遊技として認めたもの、そして完全に違法なものとを、細かく線引きする形で成り立っています。その線引きのあいまいさこそが、日本のギャンブルを独特なものにしているといえるでしょう。
カジノ解禁とIR
日本のギャンブル史の大きな転換点となったのが、カジノの解禁です。平成28年(2016年)12月、カジノや国際会議場、展示施設、ホテルなどを一体として整備する「統合型リゾート(IR)」の推進法が成立し、続いて平成30年(2018年)には、具体的な制度を定めたIR整備法が成立しました。これによって、刑法で禁じられてきたカジノが、IRの一部として、国が認めた区域に限って営業できるようになったのです。
IRの目的は、カジノそのものではなく、国際会議や展示会、観光客の誘致を通じて、国際競争力の高い滞在型の観光を実現し、地域経済の振興や財政の改善につなげることにあるとされています。ここでもやはり、江戸の富くじや戦後の公営競技と同じように、「公益のための財源」という理屈が、賭博を公認する根拠として掲げられています。カジノ事業者は収益の30%を「カジノ納付金」として納め、その半分は国に、残る半分はIRを誘致した自治体に入る仕組みになっています。
一方で、ギャンブル依存症への懸念から、日本のカジノには「世界最高水準」とうたわれる厳しい規制が設けられました。IRを整備できる区域は全国で最大3か所に限られ、カジノの区域はIR施設全体の延べ床面積の3%までとされています。日本人や国内に住む外国人がカジノに入るには、1回あたり6,000円の入場料を支払う必要があり、入場できる回数も「7日間に3回、28日間に10回」までに制限されました。入場の際の本人確認にはマイナンバーカードを用いることとされ、カジノを監督する機関として、独立した強い権限を持つカジノ管理委員会も設置されています。
この入場料の6,000円という金額は、シンガポールのカジノを参考にしながら、与党内の協議で決まったものです。シンガポール並みの8,000円を主張する公明党と、より低い金額を求める自民党との間で議論が重ねられ、両国の1人あたりの国内総生産の差を勘案して、6,000円で決着しました。入場料は国と立地自治体に3,000円ずつ配分されます。
そして令和5年(2023年)4月14日、大阪府と大阪市が申請した大阪・夢洲地区のIR区域整備計画が、全国で初めて国土交通大臣の認定を受けました。総延べ床面積約77万㎡の敷地に、国際会議場やホテル、エンターテインメント施設とともにカジノを整備する計画で、2025年の大阪・関西万博の会場となった夢洲で、開業に向けた準備が進められています。
totoとオンラインカジノ
平成に入ると、新たな公認ギャンブルが加わります。平成10年(1998年)には、超党派の議員立法によってスポーツ振興投票法が成立し、平成13年(2001年)3月から、サッカーの試合結果を予想する「スポーツ振興くじ(toto)」の全国販売が始まりました。収益の一部をスポーツの振興に充てるという目的が掲げられており、ここでも、公益のための財源という理屈が公認の根拠となっています。
もっとも、totoの売れ行きは当初から順調だったわけではありません。全国販売の開始から2年目以降、売上は減少傾向が続きましたが、平成18年(2006年)9月に、コンピュータが試合結果を自動で選ぶくじ「BIG」が導入されると、売上は大きく回復しました。自分で予想する楽しみよりも、「当たるかもしれない」という手軽さが支持されたわけで、ここにも、人々がギャンブルに求めるものの一端が表れているといえるでしょう。
一方で、法律の網をくぐるように広がってきたのが、オンラインカジノです。海外で運営されるサイトを利用すれば違法ではないという誤解から、利用者は急増し、警察庁の調査では、国内のオンラインカジノ経験者は約337万人、年間の賭け金の総額は約1兆2,423億円にのぼると推計されました。しかし、日本国内からオンラインカジノで賭けをすれば賭博罪に当たり、プロ野球選手や芸能人が書類送検される事件も相次ぎました。
こうした事態を受けて、令和7年(2025年)6月にはギャンブル等依存症対策基本法が改正され、同年9月25日から、オンラインカジノのサイトやアプリを紹介する行為や、違法なオンラインギャンブルに誘導する情報を発信する行為が禁止されています。1300年前に双六を禁じた朝廷と、オンラインカジノの広告を禁じる現代の国家。道具は変われど、人々の射幸心と、それを抑えようとする権力との攻防は、今も続いているのです。
おわりに
飛鳥時代の双六禁止令から、江戸の富くじ、明治の馬券禁止と競馬法、終戦の日まで売られた勝札、戦後復興を支えた公営競技、そして大阪のカジノとオンラインカジノの規制まで。日本のギャンブル史を振り返ると、そこには一貫したパターンが見えてきます。権力は賭博を禁じながら、財源が必要になると、寺社の修理や軍馬の改良、戦費の調達、戦後の復興、スポーツの振興といった名目を掲げて、自ら賭博を公認してきたのです。
その一方で、何度禁止されても、人々が賭け事をやめることはありませんでした。双六に興じた平安の貴族も、影富に小銭を投じた江戸の庶民も、商品券での払い戻しに知恵を絞った大正の競馬関係者も、根っこにあるのは、勝負の興奮と一攫千金への夢という、時代を超えて変わらない人の心です。
もちろん、ギャンブルには依存症という深刻な問題がつきまといます。奈良時代の禁止令がすでに、賭博が人を罪に走らせ、仕事を失わせると警告していたように、その危うさもまた、1300年前から変わっていません。公認と禁止の線引きは、人々の楽しみと社会の安全とのバランスをどこで取るかという、終わりのない問いへの、その時代ごとの答えなのかもしれません。
次に宝くじを買ったり、競馬場に足を運んだりするときには、その一枚の券の向こうに、1300年にわたる禁止と公認の歴史が積み重なっていることを、少しだけ思い出してみてください。
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